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広島地方裁判所福山支部 昭和35年(わ)9号 判決 1965年8月13日

被告人 大平政士

昭一四・三・二二生 無職

主文

被告人を懲役一年に処する。

未決勾留日数中右刑期に相当する日数を右刑期に算入する。

本件公訴事実中、殺人、放火、死体損壊の点につき被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は

一、昭和三三年七月二日午後一一時三〇分頃、福山市南町乙九五三番地の二銀座東映映画館において、大家勝太郎所有の金槌一個(時価金一〇〇円相当)を窃取し

二、同月三日午前零時三〇分頃、同市新馬場町二七〇番地の一、株式会社天満屋百貨店福山支店二階において、支店長雪本富次管理にかゝるカツターシヤツ一枚、鰐皮バンド一本(時価合計金一、三五〇円相当)を窃取し

三、昭和三四年二月一二日午後一時三〇分頃、同市蔵王地一、九五六番地、池田勇方において、同人所有の現金二、六〇〇円位を窃取し

四、同日午後二時過頃、同市同町二、一九七番地藤井英一方において、同人所有の現金四、九〇〇円位を窃取し

五、同年一〇月二七日午後二時頃、同市千田町三、二六一番地、中奥恵美子方において、同人所有の現金二、一〇〇円位を窃取し

六、同月二八日午前一〇時頃、広島県深安郡深安町大字野々浜二、九二九番地の二、小笠原一義方において、同人所有の靴下一足(時価金一〇〇円相当)を窃取し

七、同月二九日午前一〇時二〇分頃、福山市草戸町一、五七七番地、日野雪枝方において、同人所有のズボン一枚、カツターシヤツ一枚(時価合計金一、五〇〇円相当)を窃取し

八、同日午前一一時頃、同市水呑町二、四九四番地、宇田三郎方において、同人所有の現金二、〇〇〇円在中の財布一個を窃取し

九、同月三一日午前一〇時頃、広島県深安郡深安町大字能島五一二番地高田信夫方において、同人所有の現金一、〇〇〇円位を窃取し

一〇、同日午後一時三〇分頃、同町大字大門六六二番地池田勉方において、同人所有の現金二、〇〇〇円位を窃取し

一一、同日午後二時五〇分頃、同町大字野々浜二、九二九番地の二小笠原一義方において、同人所有の現金六〇〇円位を窃取し

たもので、被告人は各犯行時心神耗弱の状態にあつたものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人の判示各所為はいずれも刑法第二三五条に該当するところ、右は心神耗弱者の行為であるから同法第三九条第二項、第六八条第三号によりいずれも法律上の減軽をし、以上の各罪は同法第四五条前段の併合罪であるから同法第四七条本文、第一〇条により犯情の最も重いと認める判示四の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内で被告人を懲役一年に処し、同法第二一条により未決勾留日数中右刑期に相当する日数を右刑期に算入し、訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項但書により被告人に負担させないこととする。

(無罪部分の判断)

第一、本件殺人、放火、死体損壊の訴因は「被告人は昭和三四年二月二七日午後八時頃、予てから情交関係のあつた福山市東深津町二、九八〇番地の一、花谷フサヨ(当時五六年)方において、同女に情交を求め、同女を仰向けに押し倒し、馬乗りになつたが、同女が激しくこれを拒み、あまつさえ自己の左手甲を引掻いて抵抗したことに憤激し、突嗟に殺意を決し、同女の左右前襟首をたがいちがいに両手で掴み、その頸部を絞めたうえ、同女の腰紐を解いてその首に廻し、前頸部で緊縛し、よつて、同女を間もなく同所で、窒息のため死亡せしめ、引続き右犯跡隠蔽のため、花谷方に放火して死体を焼燬しようと企て、傍に設けてあつた寝床の上に同女の死体を引上げ、同家炊事場から灯油約四合在中の一升瓶一本、新聞紙三枚位及び燐寸一個を持出し、右油を布団周辺の上敷に撒いた後、右新聞紙を二分して、その一つを死体頭部西北側に他の一つを足部南側に、それぞれ敷布団と掛布団の間の隙間に挿し入れ、右燐寸でこれに点火し、布団より上敷、床板に順次燃え移らせ、現に人の住居に使用せず、かつ人の現在しない他人所有にかゝる花谷フサヨ方住宅に放火し、同日午後九時三五分頃迄に、右家屋を全焼させると共に、花谷フサヨの死体を焼燬して損壊したものである。」というのである。

第二、被害の事実

鎌田徳雄、鎌田毅、増成義弘の司法警察員に対する各供述調書、田中利一の検察官に対する供述調書二通、松浦政太郎の司法警察員に対する昭和三四年三月一二日付供述調書、医師香川卓二作成の同年二月二八日付鑑定書、福山市長徳永豊作成名義の花谷フサヨの戸籍謄本及び司法警察員作成の同年三月一三日付実況見分調書を綜合すれば、昭和三四年二月二七日午後九時五分頃、福山市東深津町二、九八〇番地の一遊芸人花谷フサヨ(当時五六年)方家屋の内部東側附近から出火し、同日午後九時三五分頃迄に同家屋は殆んど全焼し、その焼跡から同女が頸部を腰紐ようのもので緊縛されて窒息死し、焼燬死体となつて発見されたことが認められ、右花谷フサヨの死亡が犯罪行為によることは明らかである。

第三、花谷フサヨ殺害事件の捜査と被告人が同事件の被疑者として取調を受け、花谷フサヨ殺害を自白するに至つた経緯

第一〇回公判調書中、証人新谷弘、同木村時夫、同猪原宗三の各供述記載、裁判官村上明雄発付の逮捕状、司法巡査城淳三作成の昭和三四年一一月四日付捜査状況報告書、同巡査外一名作成の同月九日付捜査状況報告書、被告人の司法警察員に対する昭和三五年一月六日付供述調書を綜合すると福山警察署は花谷フサヨ方火災の翌日火災現場の実地見分(昭和三四年三月一三日付実況見分調書)を行い、同署に花谷殺害事件特別捜査本部を設け犯人の捜査を開始し、捜査官は犯行現場の状況、被害者の行状などから犯人は被害者と面識ある者または同女方に出入する者の犯行ではないかとの見込みで、その方面を捜査したが、犯人を発見することができず、次いで被害者に男関係があつたとの風評、当時福山市深津町一帯に風呂のぞきがあるとの聞込み及び被害者が小金を貯めていたことから犯人は変態性欲者または盗癖のある者の仕業ではないかとの見込みで捜査を続けていたところ、同年一一月四日同署蔵王巡査駐在所城淳三巡査が家出中の被告人が帰宅したことを知り、被告人を任意同行して事情を聴取した結果、被告人が同年一〇月二九日同市水呑町宇田三郎方で現金を窃取した事実を自白したので同日被告人を逮捕し、次いで勾留のうえ、余罪を取調中、被告人が数件の窃盗事件を自白すると共に東深津方面で風呂のぞきをしていたことを自供したので、窃盗事件の余罪取調を一時中止(被告人の窃盗事件についての供述調書は昭和三四年一一月一二日付調書に次いで前記昭和三五年一月六日供述調書が作成されるまで作成されていない)し、被告人を花谷フサヨ殺害事件の容疑者として取調べることになり、福山区検察庁は同年一一月一四日、被告人を宇田三郎方の窃盗事件で起訴し、そして捜査本部新谷弘巡査が被告人を取調べた結果、被告人が花谷フサヨ殺害並びに放火を自供するに至つたことが認められる。

第四、被告人の捜査官に対する自供調書の検討

被告人の司法警察員猪原宗三に対する供述調書二一通(以下猪原調書と略称する)及び検察官に対する供述調書(以下検察官調書と略称する)五通によると、被告人は花谷フサヨ殺害並びに放火を自白していることが認められるところである。

しかるに被告人は昭和三五年三月九日第一回公判期日において、罪状認否の段階で窃盗の公訴事実とともに花谷フサヨ殺害及び放火並びに死体損壊の公訴事実を認めたが、同公判の中途から花谷フサヨ殺害に関する公訴事実を否認し、警察で花谷フサヨ殺害の事実を認めたのは、警察の人がおどかしたり、すかしたりしてパンやうどんを買つてくれたので、しかたがなく花谷を殺して火をつけたといつたが、本当はしていない。初めに公訴事実を認めたのは警察で自分が花谷を殺して火をつけたように述べているので、しかたがないと思つて認めたと弁解するに至つた。

そこで、被告人の捜査官に対する自白が任意にされたものであり、かつ信憑性があるかどうかについて、先ず自供調書の内容を吟味する。

一、被告人が花谷フサヨ方に侵入し、金員を物色した状況について

被告人の昭和三四年一一月二八日付猪原調書によると、被告人は「本年二月の終り頃の朝八時三〇分頃、二百円位持つて福山駅前のパチンコ店に行つてパチンコをしたり、映画館に入つて映画を見たりして遊び、所持金を使い果し、薄暗くなつた頃帰途についたが、途中空腹を覚えたので、前に行つて情交したことのある花谷フサヨ方に行つて金を盗んでパンを買つたり、パチンコ代にしようと思つた。花谷方へ行く前に東深津小学校附近で、三個所風呂のぞきをしてから同日午後八時頃花谷方に行つた。電燈が灯つていたので、居るのかと思つて様子を窺つたが、物音がしないので表出入口から土間に入り広い方の部屋に上り、金のありそうな仏壇の左側の押入を開けて見ると木で作つた衣裳箱や三味線が一本あつたのが目についた。衣裳箱の蓋を開けてみると着物が入つていたが、着物を出さず、金を探していると花谷が帰つてくる足音がしたので、あわてて衣裳箱の蓋を閉めようとしていると同女が帰つて来てとがめたので、何もしていないと嘘をついた。」と供述しているのである。

しかし、司法警察員村上姫義作成の昭和三四年三月一三日付実況見分調書(以下単に実況見分調書と略称する)によると、花谷フサヨ方火災跡の六畳間(被告人のいう広い方の部屋)北側の押入の中から衣裳の入つた縦七〇糎、横四三糎、高さ二五糎の衣裳箱一個が発見されているが、それは木製でなく、ブリキ製であり、かつその上に小さい木箱一個と衣類などが載せてあつたことから衣裳箱の内部を物色した形跡は認められない。押入には燃え易い衣類などが焼け残つている点から、木の衣裳箱や三味線が焼失したものでないことも明らかである。

司法警察員に対する中屋政子(昭和三四年三月三日付)、田中フサ子、北野君子(同年一二月一六日付)の供述調書によると、花谷フサヨは商売道具の三味線や衣裳を田中フサ子、中屋政子等に預け、遊芸に出る際、田中フサ子方で着替えるのを常とし、当時三味線を自宅に置いていなかつたものと認められる(実況見分に際し三味線が存在すれば焼跡にある筈であることは前述)。また仏壇は押入の左側にあつたものでなく、一間の押入の内右半分に仏壇を設けてあつたことはその附近の焼跡から線香立、花立等の仏具が発見されていることに徴して明らかである。

被告人の右供述は事実に反するものであるところ、同年一二月一六日付猪原調書によると、被告人は前の供述は嘘であつたとして、「六畳間の押入を開けて金を探しかけているところへ花谷が帰つて来たので、直ぐ押入を閉めたから衣裳箱の中を探して見る暇がなく、押入に何があつたかわからない」と前記証拠に矛盾しないように供述を変更しているのである。

二、花谷フサヨ殺害及びその前後の状況について

前記一一月二八日付猪原調書によると、被告人は「花谷に、金をくれといつたが、無いというので、それでは食事をさせてくれというと、同女が食事の用意をしてくれたので、同女とともに食事をした。食事が終つてから同女と情交し、その後で無理にでも金をとる考えで眠くはなかつたが、寝かしてくれといつて、広い方の部屋に服や靴下を脱いで狭い方の部屋に入つた。その部屋には真中より少し表へ寄つた辺に炬燵をしてあり、頭を奥の方(北)にして寝るように掛布団を一枚かけてあつた。頭を奥にして布団の中に入ると、敷布団を一枚敷いてあつたが、炬燵が暖かくないので、無い方がよいと思つてそれを枕元に出した。炬燵は土で作つた丸い型であつたが、敷布団の上にかゝるように置いたか畳の上に出したかはつきりしない。間もなく花谷が寝ている部屋に入つて来て着ていた着物か羽織かを一枚脱いで枕元に置いて寝床に入つた。そのとき掛布団が少し重くなつたので、二人寝るには寒いと思つて一枚かけたものと思つた。花谷が寝床に入ると直ぐ性交を求めたところ、拒んだので、同女の上に馬乗りになり、抵抗する同女の肩や腕を押えつけているとき、同女が左手の甲を強くかなぐり、痛かつたので、こうなつたら一層のこと絞め殺してやろうと思い、左右の衿をつかんで首を絞めつけると、苦しまぎれに大声で助けを求めるので、枕元に脱いでいた着物で口を塞ぐと声を出さなくなつたので、もう一度両手で首を絞めつけた。このまゝにしておいては花谷が生き返ると同女が自分を知つているのでばれると思い、完全に殺すため同女が腰に巻いていた赤色の布で作つた長さ二米三〇糎、直径がすごいて五十円硬貨の丸さ位になる腰紐を解いて、その紐で同女の首に三回強く巻きつけ、顎の下で蝶々結びにした。結んだ端が一〇糎位出ていた。花谷を絞め殺したとき、同女の身体は三畳間の真中辺で頭を奥(北)にし、仰向けになり、両手を垂れ、両足を伸ばしていたように思う。そして死体を敷布団の真中になるように動かしてその上に暴れたとき、足元にたくれた掛布団をかけた。布団をかけた気持は花谷が寝ていて焼け死んだように見せかけるためである」と供述しているのである。

前記実況見分調書によると、花谷フサヨの焼死体は三畳間のほぼ中央に頭部を北に、両足をやゝ開いて南に向け、仰臥の状態で横たわり、頭部の北西一〇糎の位置に土製の炬燵(アンカ)が存在し、これに接し北側に畳んで置いてあつたちりめんの袷の着物が焼け残つていることが認められるが、右炬燵及び着物の下にはかなり広く黄色木綿地の敷布団が焼け残つていること及び焼死体の下には赤色及び桃色の人絹の掛布団二枚の焼け残りが存すること、焼死体の肌に近い方から桃色ネルの腰巻、白ネルの肌じゆばん、紫の小模様のある袷、草模様の羽織、綿入羽織様のものが焼け残つていることが認められる。

右によれば、花谷フサヨ方三畳間にとつてあつた寝床は被告人が述べるように北枕にしてあつたものでなく、最初から南枕にして北側に炬燵を入れてあつたもので、これを取り出したこと、また花谷フサヨが着物または羽織を脱いで寝たこと及び絞殺後死体に掛布団をかけたことの各形跡は認められない。被告人の右供述は花谷フサヨ焼死現場の状況に全然合致していないのである。

しかるに、同年一二月一六日付猪原調書によると、被告人は花谷殺害に関する前の供述は嘘であつたから、本当のことを述べると前置をして、「花谷と寝たといつたのは嘘で、本当は寝床に入つていない。花谷が食後食器などを炊事場に運ぶとき、その後をつけて狭い方の部屋に入つたところ、そこに布団が敷いてあつたが、どのように敷いてあつたか覚えていない。花谷が炊事場から出て来たとき、その前に立ち塞つて性交を挑んだところ、同女が逃げ廻るので、その後を追いかけ廻しているうち、同女が表の土間へ下りかけたので、後から同女の衿首をつかんで引張ると、三尺位後退して布団の上に仰向けに倒れた。花谷を殺したとき同女は部屋の真中の東寄りの壁に近い処に頭を北にして仰向けになり、両の手足を垂らしていた。それを布団の真中になるように引張り寄せた。そのようにしたのは、布団の上で死んだようにしようと思つたからである」と供述し、花谷フサヨ焼死現場の状況と一見矛盾しないように前の供述を変更しているのである。

しかし、実況見分調書によるも、ことさら死体を移動させた形跡を認め難く、また死体を移した意図が死体を掛布団の上に置いたのでは、就寝中の焼死を装うことはできないのであつて、右供述も不自然不合理なものといわねばならない。

三、花谷フサヨ絞殺に使用した紐について

被告人は前記の如く供述しているのであるが、前記実況見分調書及び領置してある紐の焼残り(昭和三五年押第九号の四)によると、花谷フサヨ焼死体の頸部には腰紐ようのものを三重に巻きつけて顎の右下において二重に結んであるが、結目は片蝶結びのようでもあり、また三重になつている紐のうち、上部二重の部分は赤色木綿布であるが、下部の一重の部分は濃緑色の布であつて、これが色違いの一本の紐であつたかどうか判別し難く、さらに同女の腹部には黄色の毛糸及び赤色人絹の腰紐が巻いてあるほか、その附近に頸部に巻いてある紐と同様の赤色及び濃緑色の紐の各一部が焼け残つていることが認められる。右によれば花谷フサヨ絞殺に使用された紐は同女が腰紐の代用に腰に巻いていたものを解いて使用したものであるか、または別の同種の紐を使用したものであるかどうか疑わしく、さらに同年一二月一六日付猪原調書によると被告人は「花谷が腰に巻いていた帯のように拡げられる一間位の紐を解いて、その紐で花谷の首を右廻しに三回強く巻いて絞め、顎の下の辺りで蝶結びに結んだ」と供述し、被告人の供述を録取した録音テープによると「腰の帯を解いて首をくくつた。赤い色で長さは三尺ちよつとあり、三回巻いて蝶結びにした」或は「紐の長さは一間ちよつとあつた。三尺を二つと思つた。」と供述し、検察官に対しては「花谷の腰に結んでいた赤いような色の二つに折つて三尺位の布の紐を解いてそれを花谷の首に左巻きに三回巻いて前でぐつと絞め、蝶結びにした(同月二六日付検察官調書)」と供述しているのである。

以上花谷フサヨ絞殺に使用した紐についての被告人の供述は紐の長さ、本数について区々曖昧であり、また紐の色にいつて正確を欠ぎ、紐の結び方についても前掲証拠と対照して蝶結びにしたと断定できず信用性の薄いものである。

四、花谷フサヨの死体を焼却するため油を撒布し、放火した状況について

前記一一月二八日付猪原調書によると、被告人は「花谷の死体や家を焼こうと思つて油を探しに三畳間の奥の炊事場に行つたところ、一升びんに半分位何か入つていたので中味を掌に少し流してみると石油のような匂いがしたので油だと思つて、それとその辺にあつた扇印の小マツチ一個、古新聞紙三枚位を持出し、油を花谷の頭の方の敷布団の辺から足元に撒き、さらに掛布団の上から一面にかけた。そしてマツチで四つ折りにした古新聞紙に火をつけ、死体の頭の方と足元の方の敷布団の下に差し込んだ。」と供述し、さらに同月二九日付猪原調書によると、種類を異にするびんに食油、食酢、灯油等の液体を各二四〇cc(三合)を入れて被告人に示し、放火に使用したものは右びんの液体のうちどれかとの問いに対し、被告人はそれぞれのびんの液体を正確に嗅ぎ分けた後、放火に使用した石油のようなものといつたのは、一升びんに入れてある石油と同じものであつたと灯油の入つている番号四を印した一升びんを指示し、その量について灯油の入つている一升びんに印した目盛の一〇(三二〇cc約四合)の個所を指示しているのである。前記録音テープによると、どんな油であつたかの問いに対し「黄なような油であつた」と述べ、さらつとしていたか、ねばついていたかの問いに対し「さらつとしていた。灯油と思つた。」と供述しており、検察官に対しては「木栓を抜いて中味を掌に移してみると油のようなものであつた。匂いを嗅いてみると石油のような匂いがしたと思うが自分は鼻が悪く、煙草でも鼻から煙を出すことができないほどで、物の匂いが余りよくわからないので、石油の匂いだとはつきりいうことができない。」(同月二六日付検察官調書)と供述し、次いで放火に使用した油は石油か、その他の油かとの問いに対し「はつきりしないが、石油ではなく、油のように思う。」(昭和三五年一月一日付検察官調書)と供述し、放火に使用した油が石油か食用油か曖昧かつ微妙な供述をしているのである。

以上、放火に使用した油についての被告人の供述は花谷フサヨ方の放火に油類が使用されたか、どうか及び火災当時花谷フサヨ方に油類が存在したか、どうかの点並びに検察官が、被告人が放火の促燃剤に食用油を使用したとして起訴し、第二回公判において、右訴因を灯油に変更した経緯とも関連して注目すべき点である。

(一) 花谷フサヨ方放火に油類が使用されたかどうかの点について、福山市消防署消防長広政金太郎作成の昭和三五年二月一一日付火災原因についての回答書によれば、放火の促燃剤に鉱物性油を使用した可能性の強い旨の記載がある。しかし、検察官豊永泉の火災原因についての照会書によれば、右回答は花谷フサヨ方家屋の構造及び同家の火災状況を資料とするほか、被告人の自白による発火時間、放火方法等を資料として想定したものであつて、これのみでは本件火災に石油が使用されたと断定することはできない。さらに山岡松之助の司法警察員に対する供述調書、司法警察員高橋昭男作成昭和三四年一一月三〇日捜査状況報告書、藤井武の検察官に対する供述調書、藤井一枝の司法警察員に対する昭和三五年二月一日付供述調書、為則節子の司法警察員に対する供述調書、司法警察員深田耕平作成の花谷フサヨの物品購入状況についての捜査報告書を綜合すると、花谷フサヨは昭和三二年一二月二四日同女方に電燈設備ができるまで照明用に石油を使用し、東深津農業協同組合から石油を一回に一合ないし二合、金額にして五円ないし一〇円宛購入していたこと、石油を購入する場合の容器は一升びんでなかつたことが認められ、電燈が灯るようになつてからも、石油を三回購入しているが、昭和三三年一〇月四日石油一合(五円)を購入しているのを最後にその後石油を購入した形跡のないことが認められる。電燈設備ができてから後に購入した石油の用途は明らかでないが、右藤井一枝の推測するように農協から購入していた千本木(製材屑)の焚きつけ用に使用するほか、停電の場合ランプやカンテラに使用することも考えられるが、千本木は紙屑で容易に焚きつけることができ、臨時の照明用にはローソクなどの代用品で事足りるから、昭和三三年一〇月四日を最後に石油の購入を中止したか、または購入していたとしても、過去の購入状況に徴し、少量であったことが推測され、花谷フサヨ方火災当時同家に四合の石油が存在したことは認め難いところである。

花谷フサヨは右農協から石油以外に食用油等をも購入していることが認められるが、その購入状況は石油同様必要の都度一合ないし三合宛(昭和三一年六月二二日食油一升を購入しているのが唯一の例外)購入しており、最後は昭和三四年二月二四日及び二五日に各二合宛購入していることが認められる。そうすると、火災のあつた同月二七日には同女方に食油が存在していた可能性があることになるが、同女の日用品の購入状況から推測すると、二月二四日購入した食油二合が使用して無くなつたか、または少なくなつて使用できないため、さらに同月二五日食油二合買い足して使用したものと推測され、火災当時食油四合が存在する可能性も少ないものといわねばならない。

(二) 油の撒布状況について

被告人は前記の如く、一升びんに半分位しかない油を死体の頭部の辺りから足元にかけて布団の周辺に撒布し、さらに掛布団の上に一面に撒布したと、油の量と撒布状況が矛盾した供述をし、次に「油は敷布団の周囲にかけ、布団にも花谷の死体にもかけなかつた。それは死体や布団に油をかけると火が早く廻り逃げる暇がないと思つたからである。」(一二月一六日付猪原調書)と供述を変更し、検察官に対しては「油は頭の方に差込んだ新聞紙の外側から左廻りに布団の縁を撒いて行き、一五五糎位撒いた処で油が無くなつた。したがつて死体の西側には三〇糎位しか撒けなかつた。」(昭和三五年二月九日付検察官調書)と油の量と撒布状況について合理的に供述しているが、右供述は同日検察庁で被告人に一升びんに入れた食用油四合を布団の周辺に沿つて実際に撒布せしめた結果の供述である(同日付検察官作成の実況見分調書)。

前記実況見分調書(司法警察員村上姫義作成)によると、被告人が油を撒き点火した新聞紙を布団に差込んだという花谷フサヨの死体頭部附近の敷布団の上には燃え易いちりめんの袷の着物がその上部及び周辺の一部が焼け焦げただけで焼け残つていること及び花谷の躯幹は被告人が油を撒布したという左側よりも、油が足りなくて油を撒けなかつたという右側が強く焼燬していることが認められ、この事実は被告人の油の撒布状況を否定するものであろう。

以上放火に使用した油の種類、量及び撒布状況についての被告人の供述は曖昧であり、花谷フサヨ焼死現場の状況とも符合しない点があり、かつ自白の裏付証拠が極めて薄弱であつて、自白の真実性を疑わしめるものである。

五、被告人が花谷フサヨ殺害後現金在中の財布を窃取した状況について

(一) 前記一一月二八日付猪原調書によると、窃取した現金の額及び種類につき、被告人は「花谷を絞め殺したとき同女の首に白い紐をつけて何か掛けているので、その紐を首からはずしてみると、半紙を四つ切りにした大きさの黒色様の布で作つた財布で中味は見なかつたが、硬貨が沢山入つているようであつたから盗んだ。逃げて帰る途中樋門の近くで盗んだ財布から金を出して調べてみると百円札が五枚位、五〇円硬貨が少しとその他は一〇円や五円硬貨が沢山あり、数えてみなかつたが、二千円位あるように思つた。金だけポケツトに入れ、財布はそこの川の樋門の向う側に投げ捨てた。」と供述し、同月二九日付猪原調書によると、被告人は窃取した金を自宅で計算した結果約二千円あつたと供述し、金の種別、保管状況及びその使途についても詳細に供述しているのである。

しかし、福山東深津郵便局長作成の昭和三四年三月五日付回答書、同月四日付巡査深田耕平作成の花谷フサヨ金銭収支明細と題する書面、司法警察員に対する藤井一枝の供述調書(同年一一月二九日付)及び藤井久子の供述調書(同年一一月二八日付)によると、花谷フサヨは焼死する前日の昭和三四年二月二六日東深津郵便局に対し郵便貯金から二千円の払戻を請求し、千円札一枚と百円札一〇枚を受取り、同日前記農協に米代五七七円を百円札六枚で支払い、翌二七日釣銭二三円を受取り、同日午後六時頃までに縫針、縫糸その他惣菜などの買物をして計七二円を支払つていることが認められるから残金は千三百五十一円である。同女が米代の支払に貯金を引出していること、こまごました買物をしていることから当時手許金は無かつたか、あつても米代の支払にも足りない僅かの手許金しかなかつたことが推測され、かつ硬貨は少なかつたものと認められるのである。ところが、同年一二月一日付及び二日付猪原調書によると、被告人は「花谷から盗んだ金が二千円位といつたのは間違いで、花谷から金を盗んだ日より二、三日前夜中に家から玄米二斗を持出し、愛長飲食店に千円で売り、代金を五百円札と百円札で受取り、その翌日愛長飲食店に行つて飲食して五百円を支払い、残りの百円札五枚を寝ている離座敷の畳の下に隠しておいた。その金と花谷から盗んだ金をいつしよにして畳の下に隠しておいたのを取出して数えたので二千円といつたのである。花谷から盗んだ金は千五百円位と思う。」と前の供述を変更し、さらに「花谷から盗んだ金は小金が沢山あつたように述べたのは間違いで本年五月上旬頃、宮野邦夫方で三千五百円位盗んだ時五円や一〇円の硬貨が沢山あつたのと感違いしていた。花谷から盗んだ金は千円札一枚と百円札四枚と十円と五円が少しあつたと思う。」(同月八日付猪原調書)と供述し、花谷フサヨが焼死直前に所持していたと推測される金額及び金の種類に矛盾しないように供述を変更しているのである。

そこで、被告人が花谷フサヨから窃取した金員の額等について思い違いをする事情の有無について検討を加えるに、第四回公判調書中証人宮野マスの供述記載及び小川ヨシコの検察官に対する供述調書によると、被告人が家庭から再三米を持出して愛長飲食店等に売却して小遣銭にしていたことを認めることができるが、愛長飲食店に米を売却した日が、被告人が供述する頃であつたかどうか明らかでなく、消費者が玄米を買うかどうかも疑わしく、また宮野邦夫方で現金を窃取した事実については被告人の供述を裏付ける証拠もないので変更後の供述も疑わしい。

(二) 窃取した財布の形状、色彩及び櫛が入つていた点について、被告人は前記の如く供述するほか窃取した財布につき、「色は黒色といつたが、色どり表を見せてもらつてはつきりしたが、薄い黒色であつた。その財布の中に旅行用の櫛一本が入れてあつたのを思い出した。櫛は長さが一〇糎位で全体が白色で赤、黄、空色の模様があつた。櫛の歯に油垢がついていた。」(同年一二月一二日付猪原調書)と櫛のあつたことを附け加えて供述し、さらに「財布についていた紐は汚れた丸い紐であつた。」(同月一六日付猪原調書)と供述し、また検察官に対しては「財布は西洋半紙を四つ折りにした位の大きさのもので、その両端に三尺余りの縫合せた白い紐がついていた。財布は手製のもので黒薄い色であつた。紐はずいぶん汚れていた。その中に長さ一〇糎位の黄や赤の模様のついた小さい櫛が入つていた。」(同月二七日付検察官調書)と供述しており、折畳式か、巾着式の財布か、旧式の手提袋か、それに紐が丸紐であつたか、平紐であつたか、その特定につき明確を欠ぐ供述をしているのである。

被告人の右供述の裏付けとなる司法警察員に対する藤井一枝の供述調書(昭和三四年四月二六日付)、柴田喜代久(同年一二月一七日付)、藤井ツヤミ(同月一六日付)山岡筆一郎(同月一四日付)の各供述調書によるも、花谷フサヨが平素所持していた財布は、布製の巾着式のものであつたことは認められるが、財布か旧式手提袋であつたか明白でなく、また生地が木綿か絹地か、無地か柄物か、色彩が茶色か、濃い鼠色か、黒色か各人各様の供述をなし、結局裏付証拠として被告人の盗んだ財布を特定する証拠としてその価値が薄弱である。又財布の中に櫛があつたという点については、藤井ツヤミの右供述をもつてしてもこれを認め難く、第八回公判調書中、証人宮野衛の供述記載もたやすく信用できない。

(三) 被告人は花谷フサヨから窃取した財布の処分について前記の如く供述したが、捜査の結果被告人が投げ捨てたという樋門の処から財布が発見されなかつたところ、「財布を樋門の処に捨てたといつたのは、他で盗んだ財布を樋門の処に捨てたのと感違いしていた。花谷から盗んだ財布は持ち帰つて離座敷の畳を上げて床下に投げ隠しておいたが、本年五月頃宮野ツネコと大掃除をしたとき、床下のごみを掃き出すため床下に潜つたところ、財布があつたので、ごみと共に外に出せば同女に見つけられるので、ごみを取るため持つて入つていた十能で床下を一五、六糎堀つて埋めた。」(同年一二月五日付猪原調書)と供述し、さらに床下からも財布が発見されない(第一二回公判調書中、被告人の供述記載、第一〇回公判調書中証人新谷弘の供述記載)と「財布を床下に埋めたといつたのは嘘である。嘘をいつたのは、同房の江種輝明から嘘をいつて困らせてやれといわれたので嘘をいつた。本当は床下に隠していたのを大掃除のとき床下から出してごみといつしよに焼捨てた」(同月八日付猪原調書)と供述が三転しているのである。

以上被告人が、花谷フサヨから現金在中の財布を窃取した旨の供述は次々に変更され、極めて曖昧であつて、信用性の薄いものである。

六、被告人の左手の甲の傷痕について

被告人は捜査官に対し、花谷フサヨに暴行を加える際、同女の長い爪で左手の甲を引つ掻かれ、皮がむげ身が見えていたといかにも深傷を受けたように供述しながら、帰宅して手当もしないで就寝し、就寝中痛みで目が覚めたと供述し、血がぽたぽた流れていたというのに、カツターシヤツの袖口に血が少し附着していたなどと矛盾した供述をしており(同年一一月二九日付猪原調書)、就寝中痛みで目が覚め傷の手当に使用した薬について、猪原調書によれば「ムヒ」或は「ワーム」と述べ、検察官調書によれば「ラーム」と述べ、また香川卓二鑑定書によれば「ターム」と述べ、被告人には薬名についての知識がなく、実際に傷薬を使用した者の供述とは思えない供述をしていること、捜査の結果(司法警察員新谷弘作成の昭和三四年一二月一日付捜索差押調書)被告人方から傷薬の「ムヒ」が発見されていないこと、第四回公判調書中、証人宮野マスの供述によると、被告人は左官の手伝仕事に行くようになつてから負傷することが多く、傷の手当には平素赤チンを使用していたことが認められ、以上を綜合すれば被告人が花谷フサヨに爪で引掻かれた旨の供述は極めて信憑力の薄いものである。

なお、香川卓二作成の昭和三四年一二月五日付鑑定書によると被告人の左手背部に存する三個の瘢痕は昭和三四年二月下旬頃同時に同一機転により生じた有尖鈍体による掻爬によるものと認められ、人の爪による掻爬という被検者の訴えの証左と認められる旨の記載があるが、同鑑定書に第三回公判調書中証人香川卓二の供述記載、押収してある天然色写真(昭和三五年押第九号の九)を綜合すると、昭和三四年一二月一日現在被告人の左手背部に併列する等間隔を有する三個の褐黒色の母斑様の斑点が存することが認められるが、一見して瘢痕か母斑(先天的原因で皮膚に表われる斑紋例えばそばかす、しみの類)か見分けのつかないものであつて、それが瘢痕であることは拡大鏡で細検し、かつ触診によつて周囲の皮膚面より僅かに硬いことによつて認められ、被告人が昭和三四年二月下旬頃、花谷フサヨに爪で引掻かれた旨の主訴がなければ、瘢痕自体によつて人の爪による掻爬痕かどうか、また受傷時が不明であることが認められ、等間隔に傷つける物体として爪による掻爬が有力ではあるが、それ以外に有刺鉄線、並列して打たれた釘先、有刺植物等種々考えられ、また必ずしも等間隔を有する有尖鈍体でなければ、同時に併列等間隔の傷ができないと断定することはできない。

次に鑑定人三上芳雄作成の昭和三九年二月二〇日付鑑定書によれば、被告人の左手首の傷痕は被告人が自転車に乗つて進行中水路に転落した場合、同水路壁または同壁面に突出した鉄線その他の物体によつて生ずる可能性は考えられない旨の記載があり、被告人の公判廷における弁解は認められないが、被告人は左官仕事に従事していたのであるから他の機会に前記のような傷をしないとも限らないから被告人の左手首の背部に存した前記瘢痕が花谷フサヨから爪で掻爬された傷とは断定できない。

七、被告人が本件当日被害者花谷フサヨの住居に侵入したかどうかの点について

被害者花谷フサヨは三味線を抱えて盛場などを流して歩く遊芸人であり、かつ精神異状の疑いのある人物であるから、その風姿は何人の目にもつき易く、被告人が左官仕事の出先で偶々通りかかつた花谷フサヨを仲間の者がやゆするのを見て、同女を面識する機会のあつたことは首肯できるが、被告人の昭和三四年一一月三〇日付猪原調書によると、被告人は「昨年五月頃、東深津小学校附近の風呂のぞきをしてから学校の上の方の小山に登り、次に何処かの風呂場をのぞいて見ようかと考えていたとき、畑の中の一軒家から四〇才過ぎの女の人が一人出て裏道を学校の方に下りて行つたのをその家の明りで見て覚えていた。その女の人が昨年七月頃、東深津の田中農機に仕事に行つていたとき、仲間の者が、あれが深津の学校の上の方に居る花谷だといつたその女の人と同一人であつた」と供述しているが、被告人が左官仲間から花谷フサヨのことを聞いたのは、東深津町の田中農機製作所に仕事に行つていたときではなく、吉岡徳郎、藤井隆士の司法警察員に対する供述調書によれば、福山市寺町の十全堂に仕事に行つていたときであることが認められ、その際には左官仲間の者から「あれが花谷という有名な女だ」と聞かされたのみで、花谷の住居についての話はなく、何も聞いていなかつたことが認められること、被告人が風呂のぞきの悪癖があつて、東深津町一帯で風呂のぞきをしていたことは事実であるが、前記実況見分調書、当裁判所の昭和三七年三月一二日付作成の検証調書によれば、花谷フサヨの住居は不便な丘の上の一軒家であつて、風呂場もなく、用のない限り人の滅多に行かない場所であつて、東深津小学校附近から花谷フサヨ方住居が見えにくいことが認められるので被告人が前述のように風呂のぞきのため花谷フサヨ方附近を徘徊し、後に知つた花谷フサヨを見かけた旨及びその人相まで見たとの供述は信を措き難く、さらに同女は独り暮しのため用心深く、家の出入口、その他に施錠設備をなし、被告人が侵入したという表出入口にも施錠設備のあつた形跡が認められるので、戸締りをしないで外出することはないと推測されるが、被告人は表出入口に施錠してなかつたと供述しており、また金員を物色した際の屋内の状況について前記第四の一のように事実に反する供述をしている点を合せ考えると、本件当日被告人が花谷フサヨの住居に侵入したか甚だ疑わしい。

以上、被告人の司法警察員猪原宗三に対する供述調書中、本件犯行を判断するうえに、重要な点についての供述が曖昧であるか、または二転三転し、真実性に乏しいものであるが、殊に捜査官には既知のはずである花谷フサヨの焼死現場の状況及び同女が焼死する直前の所持金について被告人が最初明らかに花谷フサヨ方火災現場並びに同女焼死現場の証拠等に符合しない供述をしているのにその点を直ちに追及して確かめていないのは証拠の検討を怠り、後日この点に気がつき、或は被告人の自供が犯行現場の状況等と余りにもかけ離れているため花谷フサヨ焼死現場の写真等を示して暗示、示唆を与え、また誘導質問によつて右証拠に符合し、または矛盾しないように前の供述を変更させたのではないか疑われても已むを得ないような取調べがなされているのである。この点について第一〇回公判調書中証人新谷弘は昭和三四年一一月二七日木村係長から窃盗事件で勾留中の被告人に風呂のぞきの疑いがあるから取調べるよう指示を受け、同日午前九時三〇分頃、被告人を風呂のぞきの件で調べていたところ、同日午前一一時三〇分頃、被告人の方から自発的に花谷殺害を自供した。そのときは花谷を追い廻して殺したと自供したが、午後録音をとるときになつて花谷と同衾したように供述するに至つた。被告人の取調べは同日午後零時一〇分頃終つたと証言し、昭和三四年一二月一六日付猪原調書によれば、被告人も花谷フサヨ殺害について右証言に副う供述をしているのであるが、新谷証人が被告人の供述を書留めた備忘録の内容は相当詳しく、内容のあるものであることが同証言によつて認められるところ、僅か四〇分間の取調べで被告人が花谷フサヨ殺害の一部始終を供述したかどうか被告人の後記知能を合せ考えると疑わしく、それに被告人の供述を録取した昭和三四年一一月二八日付猪原調書によると、新谷証人が同日被告人の取調べに立会人となつていることが認められるところ、被告人が前日同証人に供述した内容と異なる供述をしたならば、直ちに追及することができたのであり、右猪原調書は被告人が現場証拠に反する供述をしているのであるから当然その点を追及し、事実の真否を確かめるべきであるのにそれがなされていないのであつて、新谷証言は右に関する限り信用できない。

被告人の自白が任意になされたか又は信用できるかどうかは被告人が一見通常人より知能が劣つていることが認められるから、被告人の知能及び取調べの状況が大きく影響すると考えられるので、被告人の知能、性格並びに取調状況を検討し、自白の内容と綜合して判断する。

第五、被告人の知能及び性格並びに被告人の取調状況

被告人の公判廷の態度は無表情に近く、時に素知らぬ風を装い、供述内容は通俗的な言葉しか理解せず、思想の表現が困難、拙劣であつて、極めて具体的な事柄についてしか答えられず、日常の体験事実については、かなり供述するが、公訴事実に関しては沈黙が多く、肯定する場合も理解に苦しむ肯定があり、その人格の全貌を把握することに多くの困難を感ずるが、一見して知能の劣つていることは明らかである。

一、被告人の知能及び性格

被告人の知能について、鑑定人浜野浩枝作成の昭和三五年二月三日付鑑定書によれば、「生来性精神薄弱症であり、その程度は魯鈍である」とあり、鑑定人田椽修治作成の昭和三七年九月三日付鑑定書によれば、「生来性(先天性)精神薄弱と考えられ、その程度は重症痴愚に相当し、犯行当時も現在と同様の状態にあつた」とあり、鑑定人土井正徳作成の昭和三九年九月八日付鑑定書によれば「生来性精神薄弱者であり、その程度は重症魯鈍ないし軽痴愚に属し、昭和三四年二月二七日及び同年一二月八日以降同三五年二月九日に至る頃も現在と同一範疇に属するものと認める」とあつて、被告人が生来性の精神薄弱者である点において共通し、その程度については鑑定の結果が区々であるが、田椽鑑定が長期間被告人を観察して鑑定されたものである点、被告人の公判初期における態度、供述内容を合せ考えると、被告人が花谷フサヨ殺害事件について捜査官の取調べを受けていた当時の知能程度に適応するものと認められる。

田椽鑑定によれば、被告人の知識は身近な具体的事物に限られ、一般的な常識に欠け、抽象的観念に乏しく、事物の差異、類似、因果関係等については漠然とした理解しか有せず、前後はわかるが、左右、方角についての知識は曖昧であり、時計も正時は識別できるが、中間時は識別ができず、読力、記銘力も劣り、計算は一桁の加算に長時間を要し、掛算は殆んど不可能であることが認められるが、他面自己の体験事実はかなり良く記憶していることが認められ、知能発達の不良と平行して情意面の欠陥も相当顕著であつて、羞恥心、道徳感などの高等感情の欠如がみられ、意思面でも食欲、性欲などの低級な欲望の抑制力が弱く、前後の見境のない窃盗、家出、徘徊のような衝動的行動に陥り易い。しかし、情性欠如、爆発性など粗暴行為に出る性格特徴は著明でないことが認められる。被告人の少年時代を少年調査記録によつてみれば、中学校在学中の知能は白痴の如くみられ、進んで悪事を働く勇気はないと思われ、非行は中学校卒業後青年団に仲間入りしてから、仲間に誘われて女遊びを覚え、一七才の頃初発非行(窃盗一件)が見られ、右非行で昭和三一年二月二五日保護観察に付された。その頃の性格は正直でのんびりし、性格上の歪みは未だ見られなかつたことが認められる。第四回公判調書中証人宮野マスの供述によれば、被告人は中学卒業後左官深川善平の下で働いていたところ、昭和三三年二月頃、仕事中屋根から落ちて腰の骨を痛め、骨接院に約四〇日入院加療したことがあり、それ以来仕事を怠け(被告人は女遊びに浪費するため、賃金を祖母が受取り、楽しみがないので怠けたと土井鑑定人に訴えている)、遊癖がつき、小遣銭に窮すると家庭から米を持出すようになつたことが認められ、その頃から被告人は映画、女遊びに耽溺し、小遣銭に困つて盗をし、風呂のぞきの悪癖を身につけるに至り、精神薄弱者の陥り易い傾向が認められるようになつたが、窃盗以外の犯罪歴はない。

なお、被告人はひろ子なる女性に執心し、これを心配した祖母らが昭和三四年八月頃、四〇才に近い嫁を迎えたが、被告人は妻を嫌つて家出し、本件起訴された窃盗の大半は右家出中の事件である。

二、被告人の取調状況

被告人は昭和三四年一一月四日福山警察署蔵王巡査駐在所に任意同行を求められ、城巡査の取調べを受けたことはすでに述べたところである。その取調べの状況について被告人は「一〇日間何処に居たか、その間何を食べていたか」と問われ、「柿や無花果を食べていた」と答えると「それだけでは一〇日間食べられない。何か盗んだろう、直ぐ帰してやるから正直にいえ。」といわれて、「水呑で他人の物を盗んだ。」と答えて「盗んだ財布を差出したところ、それ以来警察にとめられた。」と供述し、また、花谷のことで調べられるようになつたのは、窃盗事件で勾留中、同房の相京という者から、花谷が殺されたことを知つているかと尋ねられ、繩でくくられていたのだと話したところ、その翌日相京の取調べが済んだ後、新谷刑事から調べられ、「深津方面で何かしていないか」と問われたので、「風呂のぞきをしていた」と答えると「ほかに何かしていないか、花谷を知つているだろう」と問われ、「知つている」と答えると「花谷を殺しているのではないか」と問われ、「何もしていない」と答えると「お前がやつたのを見た人がいる」といわれたので、びつくりし、しかたなく「やつた」と答えた。始め「繩でくくつた」といつたが「違う」といわれ「紐のようなものはなかつたか」としつこく聞くので「紐があつた」と答えた。取調中にパン、うどん、サンドイツチを食べさしてくれ、録音をとるときも焼そばを食べさしてくれた。服も買つてくれた。夜の一一時頃まで取調べられたこともある。検察庁に送られるときは警察で述べたように正直にいえといわれたと供述し(第八、九回公判調書中被告人の供述記載)第一〇回公判調書中証人宮野マスの証言は被告人が刑事室で食物を食べていたことを証するものである。

第一〇回公判調書中、証人新谷弘、同木村時夫、同猪原宗三の各供述記載を綜合すれば、家族から被告人に差入れた金でパンやうどんなどの食物を買い与えていること、被告人が自白した後ではあるが、被告人の背広上衣を領置した際、古着の半オーバー一着(昭和三五年押第九号の一三)を買い与えていることが認められ、また被告人が左官仕事中に落ちて打つた背骨の痛みを訴えていることが認められ、昭和三四年一一月三〇日付猪原調書によれば、被告人は「昭和三三年三月頃、左官仕事中に二階から落ち、そのとき打つた背骨が痛いから癒して仕事に行きたいと思うから許してもらいたい。祖母や女房に心配かけて済まなかつたと思う。」と供述し、録音テープによれば「早く帰してもらつて仕事に行きたい。」と供述していることが認められ、当時被告人が腰痛を訴え、かつ帰宅を希求していたことが認められる。

以上、被告人の知能程度、取調べの状況等を綜合すれば、被告人の取調べは通常人の場合と取扱いを異にし、かなり自由気楽な雰囲気の中で取調べが行われたものであることが推測され、被告人に食物を与える場合、差入れの金で買い与えるものであることを明らかにしないで与えれば、被告人は捜査官が親切にしてくれるものと誤解し、恩義を感じ、捜査官から花谷フサヨ焼死現場の写真等を示されて、暗示を与えられたり、また誘導質問を受ければこれに迎合し、嘘偽の自白をしたり、捜査官の期待に副う供述をなす虞れのあることは必ずしも否定できない。

被告人が暗示や誘導にかかり易いかどうかについて、前記土井鑑定書の問診の項において、被告人が妻が嫌いで家出しながら、一〇日後に帰宅した理由について問われ、最初「雨は降るし、傘はなし帰つた。」と答え、次に「お嫁さんと会いたくなかつたのか。」と問われて、これを否定しておきながら、同鑑定人の誘導質問によつて最後には妻と関係したくなつて帰つたことを認める供述をしているが、これは被告人が暗示や誘導に弱いことを示す一の例証である。もつとも花谷フサヨ殺害についてはこれを否定しているが、これに関連して土井鑑定書によれば、「自己を深甚に脅かす可能性のある場合は、いわめる普通の程度の暗示、強制誘導つまり常識的に許容される程度のおどしやすかしをもつてその目的効果をあげることは不可能に近い」旨の記載があるが、土井鑑定がなされた時期は、被告人が捜査官の取調べを受けたときから四年余を経過した時期であり、被告人は花谷フサヨ殺害事件で起訴され、初めて法廷に立ち、おぼろげながら自己が容易ならぬ立場に置かれていることを覚り、公判の回数を重ねるにつれ、同房者らからいわゆる雑音を聞かされて、裁判に関する知識を広め、自己の裁判の成行に関心を持たざるを得なくなり、警戒心を強めたであろうことは容易に推測され、その結果が土井鑑定に影響を及ぼしたものと考えられるのである。しかし、捜査の段階において、前記の如き取調状況においては警戒心も薄く、意識的に嘘偽の供述をしたり、自己の供述がどのような結果になるか考え及ぶ思慮分別は無かつたものと認められる。

なお、被告人の司法警察員猪原宗三に対する供述調書二一通中、昭和三四年一二月二二日付調書二通は内容が同一であることが認められ、これによれば、被告人の供述を録取した都度調書の読聞けをしていたかどうかも疑いの存するところである。

第六、結論

被告人の司法警察員猪原宗三に対する自供調書は被告人の知能、性格、取調状況及び供述内容の三者を綜合判断すると、本件花谷フサヨ殺害、放火の犯行に関する部分は捜査官の前記の如き暗示、示唆及び誘導に基き、且つ自己の日常体験事実を織りまぜて供述したものであつて、任意にされたものでない疑いがある。少なくとも前記第四において供述の内容を吟味したように供述の信憑性は極めて薄いものである。被告人の公判廷で主張したアリバイが崩れたのも過去の体験事実を日時が曖昧なままに花谷フサヨ殺害当日の行動のように申立てたまでであつて、被告人の知能程度を理解すれば諒解できるものである。

次に被告人の供述を録音した録音テープは前記のように被告人が昭和三四年一一月一四日宇田三郎方窃盗事件で起訴された後、同月二七日までの間新谷刑事の取調べを受け、その間の被告人の供述をまとめて供述させ、これを録音したいわば復唱的な供述に過ぎないものと認められ、その内容も猪原調書の内容と大同小異であつて、その価値も右供述調書と同様である。又被告人の検察官に対する自白調書は任意性までも否定すべき資料は存しないが、その供述の内容は司法警察員猪原宗三に対し前記事情のもとに任意になされたものでない疑いのある供述を内容とするものであり、また他の証拠との矛盾をあるので、その信憑性は極めて薄いものである。

以上、説示したように被告人の各自白調書は任意性を欠くか内容において不自然、不合理であり他の証拠と合致せず、信憑性極めて乏しく、これを除いては本件記録にあらわれたすべての証拠を検討するも他に花谷フサヨ殺害等に関する本件公訴事実を証明するに足る証拠は存しない。結局犯罪の証明がないことに帰するから刑事訴訟法第三三六条により本件公訴事実中殺人、放火、死体損壊の点につき、被告人に対し無罪の言渡しをする次第である。

(裁判官 伊達俊一 三宅卓一 岡田勝一郎)

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